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朝起きたらなんか変だって思った。視界がぼんやりと青いんだ。空気が青く染められたみたいな感じ。ベッドで仰向けになったまま右手を伸ばすと、青い空気越しの腕は、指は、予想通りになんだか妙に青白い。さて、どうしたことだろう。気味が悪いので目をつむって考えることにする。まぶたの裏でインクを零した模様みたいな光が、いつもと変わらない色合いで、瞬く。
そうか、と気付く。
夏だ。
「朝ごはんー」と弟が居間で叫ぶのが聞こえた。私は慌ててベッドから抜け出す。まったく、小学生は夏休みも早起きだから困るよね。悪いのはラジオ体操である。まあ、別にいいけどさ。
制服のブラウスを手に取ると、当たり前に薄青い。弟の新しい甚平から色写りしたのじゃあ、ないはずだ。よし。
「おはよう」と言って居間に入る。
「あらおはよう、お姉ちゃん」。母が応える。「もう母さんとタカくんは、朝ごはん、済ませちゃったからね」
なるほどテーブルには一人分の朝食しか出ていない。弟はテレビにかじりついて、カラフルな五人組が怪人を爆破するのを楽しそうに見ている。五人組のうちピンクがちょっと紫っぽくなっていて、なんだか艶めかしい。
「そういえば、父さんは?」
「休みの日なんだから、寝させてあげなさい」
私も夏休みなのになあ補習も終わったのになあと小声で言うと、母は不思議そうな顔をする。
「でも、制服でしょ、それ」
「うん。明日は勉強しに朝から図書館行きますーって昨日言ったじゃん」
「わざわざ制服なの?」
「だって、変に私服で行って、知り合いに会ったら困るし」
そうやって言うと、母は若い子って大変ねえと、心底哀れむように私を見た。ほっとけおばさん。
朝食は今日もごはんと納豆と温泉卵、ほうれん草。最初の三つの組み合わせは我が家での最近の流行だ。最初はダイエットのためにと嫌いな納豆を食べ始めた母だけど、今ではすっかりナトラー(納豆好きのことを我が家ではそう呼ぶ)だ。
青くなったごはんも卵の白身(これからアオジロミと呼ぶことにしよう)も見た目は気持ち悪いけど、味は変わらないから、まあ平気。
「そうそうお姉ちゃん」と母が食器を片付けながら言った。「青注意報が出てるから、気をつけてね、図書館に行くとき」
うんわかったと素直に頷く。
「それにしても、まだ青いって気がしないのにねえ、もう注意報だものねえ」
母は、青にも気付きにくくなってしまったわ、年かしらねと溜息を吐く。弟はチャンネルを天気予報に変えられてしまって手持ちぶさたになり、テレビの前でラジオ体操の復習をしている。第二の、なんだか腕をムキムキとするやつ。テレビの中では七三分けの縁なし眼鏡が、
「青の透明度が、今日は八十パーセント以下になる見込みです。外出の際には十分注意しましょう」
無表情に口を動かしている。
行ってきますと言って家を出た。
図書館への道を行く。ケータイで音楽を聴きながら歩く。セミの声がうるさいので、音量をどんどんあげて行く。聴覚はすっかりYUKIの甘いような酸っぱいような声に支配される。
夏の街では特に色濃く、青が氾濫している。青いと涼しいような気分になるけど、やっぱり暑い。母に言われて持ってきた、青探知機能付き腕時計を見る。なんとも言い難いデザインだ。だから腕には付けず、鞄の中に入れている。
青度八十二パーセント。
そろそろヤバイのかな、腕時計の隣に入れてある、対青サングラスを取り出す。黄色が入ったサングラス。五年くらい前から青注意報、青警報が言われるようになって、それに合わせて発売されたものだ。黄色と青だったら、視界は緑になるのか、緑のごはんもキモいなあと思って訝しみながら買ったのだけど、不思議と景色はフィルターなしのクリアな感じ、になる。補色の関係がなんたらと説明書に書いてあったけど、意味がよくわからなかった。これは一応自分で選んで買った物だし、デザインも気に入っている。
昔は青くなったりなんかせんかったのになあ、と祖母や祖父は言う。あんまり歴史のない現象らしいね。そして、青は最近どんどん、勢力を強めてきている。なんで青に関して警報とかが出るのか、よくわからない。外出の際には注意と言われるんだけど、そもそも青は屋内屋外で濃度は変わらないしね。ホームルームで一度、このことについて討論会をしようというのがあったけど、先生がうやむやにしてしまった。いつもは穏和なおじいちゃん先生、タノちゃんが、めずらしく声を荒げて、そういうのはやめておきなさい、と言ったのだ。それがあんまり常でないことだったので、青の濃度には、重大な国家機密が関係しているのではないかと、我がクラスで、まことしやかに語られるようになった。もちろんそんなの、ほんの冗談みたいなものなのだ。だれも本気じゃないぜ、だからタノちゃん、もう怒らないでね。
BGMがYUKIからtacicaに変わった。すれ違う人の歩く速度が、妙に曲に合っていて面白い。
さて、もうすぐだ。
図書館は美術館の隣にひっそりと建っている。美術館周辺は木々で囲まれている。日本の中のさらに島国みたいな田舎だけど、やっぱり街はコンクリートジャングルだ。だから、この辺は貴重な憩いの場である。
図書館の勉強スペースは、ほぼ満席だった。イヤホンをはずす。勉強スペースでお喋りに興じるような人ってなかなかいないのだ。冷房が効いていて窓は閉め切っている。セミの声も聞こえない。世界は静まりかえる。サングラスもはずす。人々が一斉に青白くなった。
窓際にポツンと取り残されたような席を見つけた。正面を見ると窓、その向こうに木々が見える。なかなかいい席だ。ここに決めた。勉強道具を広げる。今日のノルマは、英語の模試過去問二年分、数学の宿題八問、ということにしておこう。まずはあんまり苦手でない方の数学から始める。期待値を求める問題で、ありえないようなごちゃちゃした分数の値が出てしまう。答えを見ると案の定、不正解。でもそこに至るまでの過程は合っているようで、計算間違いかよ、とイライラする。
消しゴムをガーッと走らせて、消しかすを机の向こう側に落としていく。ふと窓の外の青緑、木々の間に黒い塊があるのが目に付いた。でっかいカブトムシのような形をしている。
好奇心には抗わない主義だ。嘘です。数学に向き合う気力が失せたので、巨大カブトムシを見に行くことに決める。音を立てないように慎重に席を立った。勉強道具はそのままにしておく。せっかくの席を、誰かに取られてしまってはかなわない。
サングラスを再び装着して、図書館から出る。
「あれ、今野じゃん」
果たしてそこに居たのは、クラスメイト今野だった。やっぱり制服。そして、黒い塊を片手で支えている。これが窓からはツヤツヤのカブトムシっぽく見えたのだろうけど、意外に布製らしく、くたびれている。
「あ、金田。おはよー」
「おはよ。なにそれ、重そうだね」と私が黒い塊を指して言うと、
「ああ、楽器。見た目ほど重くはないよ」と今野は応える。
「楽器?」
「コントラバス」
今野は黒い塊の下の方に手を伸ばして、真ん中にあるチャックをジジジと開けていく。中からは大きなバイオリンみたいな楽器が出てくる。カブトムシの脱皮。
楽器は側面を下にして、芝生の上にそっと置かれる。今野は黒い抜け殻のポケットから、黒くて細長いケースと、シワシワの布、赤くて丸い小さなケースを取り出す。
「部活とか? 吹奏楽部だっけ、今野って」
「いや、これは、バイトかな。楽器は部活で使ってるやつだけど。金田は? 勉強?」
「うん、宿題。静かでいいよ、図書館。で、バイトって?」
私は驚いて、訊ねる。なんのバイトだ。
今野は返事をせずに、黒くて細長い方のケースから何か取り出す。私が黙って見ていると、これは弓、と説明してくれた。長い弓に、今度は赤い方のケースから取り出した塊を塗りつけていく。松脂というらしい。
「それで、バイトってなにをするん」
今野がすっかりコントラバスの世話を終えたようなので、もう一度訊ねた。今野はまたも返事をしない。代わりに今野は寝かせておいたコントラバスを立たせて、五本ある線の向かって右から二番目を、指で弾く。レの音がする。
「弾くだけのバイト」と、やっと今野が言った。
「弾くだけか」
「うん」
「給料とかは?」
「そりゃ、もらえんと」
「どれくらい」
一番知りたいことだったけど、それは秘密と言って教えてくれなかった。
今野はしばらく、コントラバスの調整みたいなことをしていた。弓を使って、長い音を響かせている。いい感じの低音だ。
「そういえば今野、サングラスしないの? 注意報だけど」
ふと気付いて訊ねた。サングラスしたらバイトにならないんで、と今野。へえ、そうなんだと頷く。言ってる意味はわからないけど、とりあえず。
「バイトって、楽器弾いてどうにかなるん」
「なる、すごいよこれは」。楽器を引く手を休ませて、今野は自慢げに言う。「青をさ、除去するんだよね」
「青を除去」
「そう。ちょっと金田、サングラスはずしてみてよ」と言うので、従う。
「……青がちょっと薄い?」
「うん、コントラバスが吸い取ったからね」
「うそ。どうやって」
「さあ、原理はよく知らん」
よく知らんけど、と言いながら、今野はキョロキョロと辺りを見渡した。そして何かを見つけたようだ。コントラバスは左手で支えられている。
「金田は、ヌゼミって知っとる? あれと同じようなものだって聞いた」
ヌにアクセントを置いた発音だった。
「ヌゼミ?」
「あれとか、なんだけど」と今野が右手で指さしたのは、近くの木の上の方でシャワシャワ鳴いている、アブラゼミだった。
「あれはアブラゼミだろ」
「いや、あれがヌゼミなんだって。よく聞いたら、シャワシャワの下で、ヌーンヌーンと言っとるんよ、わかる?」
「それは、本気なん」
よく聞いたけど、ヌーンヌーンなんて鳴くセミはいないように思えた。今野は渋い顔をし、コントラバスを置いた。そして足元から何かを拾い上げ、それを私に向かって、投げた。ナイスキャッチを成し遂げて手の中を見ると、セミの抜け殻だった。
「こんなもん投げんなよ」。私は慌てて手を放す。抜け殻は芝生に落ちた。
「あ、非道い」
今野はこっちまで来て、抜け殻を拾い上げた。ほら見てというのでよく見ると、殻じゃない。
「さらにキモいよ」
「中身、虫じゃないって、ほら」
殻じゃない抜け殻の中央に縦線、そこに注目せよと言う。
「あ、青い」
ヌゼミはアブラゼミとかクマゼミみたいな姿をとるけど実はセミではない、ということを今野は説明した。神様に量産され、青が来る頃、つまり夏になると、空からゆっくり降りてくるらしい。そして木々や壁に留まって、他のセミの声真似をしながら、同時にヌーンヌーンと鳴く。このヌーンはコントラバス並の低音だという。そして、コントラバスと同じように青を吸い取る。死ぬまで青を吸い取ると、ヌゼミは羽根を縮めて丸まって、自分を薄い殻で覆う。そして殻の中で身体は溶けて、吸い取った青と混じり合って、結晶になる。
また、青は、五月に溢れた人々の憂鬱を主な成分としている。どの季節も憂鬱は空気中に立ちこめているけど、夏の暑さに呼応して青くなるんだって。地球温暖化と、人々の未来への不安とか、凶悪な犯罪とか、いじめ問題とかが、青をどんどん濃くしていく。青はときどき人々を不安にする。だからヌゼミとコントラバスは、蔓延する憂鬱を少しでも取り除く大切な役割を担っている。コントラバスの他にも同じトーンの音を出せる楽器はあるし、人も低い声は出せる。だけど青の除去ができるのは、コントラバスだけなんだと自慢げに言う。
どうせまた、いつもの冗談だろという気分で聞いていた。今野はそういうやつだ。
「それで、集めた青は、こうなる」
今野がそっと青色が覗いている縦線に爪をひっかけ、殻を剥いていく。すると、きれいな青い結晶が現れた。化学の教科書にありそうな色だ。銅の実験とかで。
今野はそれから、ドレミファソラシドとかを何回か弾いた。その後に、一番太い線と、二番目に太い線だけで、何か曲っぽいのを弾く。すごく低い。おもしろいほど低い。かえるのうたのようだったけど、こんなかえるいないぜ、というような感じだ。
サングラスをはずしたまま、そういうのを見ていた。ずっと立っているのも疲れる。スカートがしわにならないように気をつけながら、芝生に腰を下ろした。コントラバスの周りの青がキラキラした粒みたいになって、空気中を踊り、ひげみたいな形の穴に吸い込まれていくことに気付いた。
「こういうのが、除去か」
そうそうすごかろ実際に見てみると、と言って、再び今野はコントラバスを横に寝かせた。手招きされたので、私は立ち上がり、今野の側にいく。コントラバスの側面には二センチ四方くらいの小さな扉があった。扉には鍵穴がある。今野は胸ポケットから金色に光る鍵を取り出して、カチャリ。扉が開く。観音開き。続いて今野が取り出したのはガラスで出来た棒状のものだった。開けたばかりの扉の奥に差し込む。そして引き上げると、ガラス棒の先には、さっき抜け殻から出てきたのと同じような、青い結晶。
「これを提出するのがバイトなわけよ。あと、ヌゼミが作った結晶も集めたらいいっぽい」
「それ、高そうだよね」と私が言うと、
「そうでもないみたいだけどね」
「うそ」
「うん、なんか、消臭剤として利用できる程度みたいだし」
「以外とショボイんだ」
そうなんだよと今野は笑った。
「かわいそうだろ、こんなにきれいなのにな」
今野は四個、青の結晶を集めると、今日はここまで、と言ってコントラバスを片付け始めた。
見ていて分かったのは、青を吸収できるのは、コントラバスの出す音の中でも、低い音を弾いたときだけだということ。また、一度コントラバスの周辺が青くなくなっても、他の場所からの青が流れ込んで、結果的にどこも、変わらない青さのままだということ。
「まだ、全然青いじゃん」
「そんなものでいいんだって」
「どうせなら、透明にしたらいいのに。その方が儲かりそう」
「うん、だろうけど、一気に薄くなったら、ばれるじゃん」
青を除去する作業は、あまり大々的にやれないのだと今野は説明した。
「なんで」
「国家機密だからだろ」。今野はいたずらっぽく笑う。
「はは、そうだった」
今野がすっかり後片付けを終えるまで、私は横で見ていた。気付けばもう三時だった。そういえば、昼ご飯を食べていなかった。もう戻ろう。お腹が空いたし、そろそろ勉強道具が人様の邪魔になっているだろうし。
「なんかおもしろかった、ありがとう。それじゃあね」と私は今野の方をたたく。コントラバスも、なでさせてもらった。
「うん、こっちも一人で弾くより楽しかった」
「それはよかった。……じゃあまた、夏休み明けとかに」
私はスカートについた大量の芝を払った。
今野は少し寂しそうな顔をした。
「どしたん」
「いや、たぶん、もう会えないなあと思うとさあ」
「はは、またそういう冗談?」
「青集めがだいぶ、巧くなったからさ、昇進することになって」と必死そうに言うので、私は黙って聞いてやる気になった。
「オレ、実は天使でさ、ヌゼミの仲間なんだけど、上に帰ることになると思う」
笑えた。
私が声を殺して、のどの奥で笑っていると、今野は神妙な笑い顔を作って、続けた。
「それで、転校するみたいに言われると思うんだけど、神様も非道じゃないから記憶消すとかしないしさ。ああそれで、みんな元気でって言っといてや。あと、国家機密探りまくったら、消されるから気をつけてって」
「はは、うん。わかったよ、うん」
私たちはお互い手を振って別れた。
私のものだったはずの机には太めの男性が陣取っていて、原稿用紙に必死に文字を並べていた。かわいそうに、私の勉強道具はどういう経路を辿ったのか、勉強スペースの入り口に、ひっそりと並べられていた。
夏休みも後半戦に入り、いよいよ青は濃さを増した。宿題は相変わらず進まないけど、ひっそり並べられた勉強道具たちショックで、図書館に行く気はしなかった。「夏休みの友」を見ると、吹奏楽部も弦楽部も、部活をしていることが分かった。そのどちらかだろう、今野が所属しているのは。
今日は学校の自習室で勉強をしよう。サングラスをかけて、家を出た。
「そろそろ警報かしらね」と母が言っていた。もっとがんばれよヌゼミもコントラバスもと思った。今野にあったら、そうやって言っておかないとな。
校門の前に来ると、今野が本当に天使で、上に帰ってたらどうしよう、という気がしてきた。
しばらく考えると、万が一本当にそうだとしても、それはまたおもしろいではないかという気になった。今野らしいおもしろさだ。そして今野はおもしろいやつだが、おもしろいやつにありがちなように、成績が悪い。だから青を集めるのが巧くても、昇進して就いた仕事は上手くいかない。それできっと左遷され、戻ってくるのだ。
私はサングラスをはずして、一歩を踏み出した。
校舎では吹奏楽部が合奏をしているらしい。大会が近いとか、そういうあれなんだと思う。青い景色に、爽やかな音楽が駆け抜けていく。
そうか、と気付く。
夏だ。
「朝ごはんー」と弟が居間で叫ぶのが聞こえた。私は慌ててベッドから抜け出す。まったく、小学生は夏休みも早起きだから困るよね。悪いのはラジオ体操である。まあ、別にいいけどさ。
制服のブラウスを手に取ると、当たり前に薄青い。弟の新しい甚平から色写りしたのじゃあ、ないはずだ。よし。
「おはよう」と言って居間に入る。
「あらおはよう、お姉ちゃん」。母が応える。「もう母さんとタカくんは、朝ごはん、済ませちゃったからね」
なるほどテーブルには一人分の朝食しか出ていない。弟はテレビにかじりついて、カラフルな五人組が怪人を爆破するのを楽しそうに見ている。五人組のうちピンクがちょっと紫っぽくなっていて、なんだか艶めかしい。
「そういえば、父さんは?」
「休みの日なんだから、寝させてあげなさい」
私も夏休みなのになあ補習も終わったのになあと小声で言うと、母は不思議そうな顔をする。
「でも、制服でしょ、それ」
「うん。明日は勉強しに朝から図書館行きますーって昨日言ったじゃん」
「わざわざ制服なの?」
「だって、変に私服で行って、知り合いに会ったら困るし」
そうやって言うと、母は若い子って大変ねえと、心底哀れむように私を見た。ほっとけおばさん。
朝食は今日もごはんと納豆と温泉卵、ほうれん草。最初の三つの組み合わせは我が家での最近の流行だ。最初はダイエットのためにと嫌いな納豆を食べ始めた母だけど、今ではすっかりナトラー(納豆好きのことを我が家ではそう呼ぶ)だ。
青くなったごはんも卵の白身(これからアオジロミと呼ぶことにしよう)も見た目は気持ち悪いけど、味は変わらないから、まあ平気。
「そうそうお姉ちゃん」と母が食器を片付けながら言った。「青注意報が出てるから、気をつけてね、図書館に行くとき」
うんわかったと素直に頷く。
「それにしても、まだ青いって気がしないのにねえ、もう注意報だものねえ」
母は、青にも気付きにくくなってしまったわ、年かしらねと溜息を吐く。弟はチャンネルを天気予報に変えられてしまって手持ちぶさたになり、テレビの前でラジオ体操の復習をしている。第二の、なんだか腕をムキムキとするやつ。テレビの中では七三分けの縁なし眼鏡が、
「青の透明度が、今日は八十パーセント以下になる見込みです。外出の際には十分注意しましょう」
無表情に口を動かしている。
行ってきますと言って家を出た。
図書館への道を行く。ケータイで音楽を聴きながら歩く。セミの声がうるさいので、音量をどんどんあげて行く。聴覚はすっかりYUKIの甘いような酸っぱいような声に支配される。
夏の街では特に色濃く、青が氾濫している。青いと涼しいような気分になるけど、やっぱり暑い。母に言われて持ってきた、青探知機能付き腕時計を見る。なんとも言い難いデザインだ。だから腕には付けず、鞄の中に入れている。
青度八十二パーセント。
そろそろヤバイのかな、腕時計の隣に入れてある、対青サングラスを取り出す。黄色が入ったサングラス。五年くらい前から青注意報、青警報が言われるようになって、それに合わせて発売されたものだ。黄色と青だったら、視界は緑になるのか、緑のごはんもキモいなあと思って訝しみながら買ったのだけど、不思議と景色はフィルターなしのクリアな感じ、になる。補色の関係がなんたらと説明書に書いてあったけど、意味がよくわからなかった。これは一応自分で選んで買った物だし、デザインも気に入っている。
昔は青くなったりなんかせんかったのになあ、と祖母や祖父は言う。あんまり歴史のない現象らしいね。そして、青は最近どんどん、勢力を強めてきている。なんで青に関して警報とかが出るのか、よくわからない。外出の際には注意と言われるんだけど、そもそも青は屋内屋外で濃度は変わらないしね。ホームルームで一度、このことについて討論会をしようというのがあったけど、先生がうやむやにしてしまった。いつもは穏和なおじいちゃん先生、タノちゃんが、めずらしく声を荒げて、そういうのはやめておきなさい、と言ったのだ。それがあんまり常でないことだったので、青の濃度には、重大な国家機密が関係しているのではないかと、我がクラスで、まことしやかに語られるようになった。もちろんそんなの、ほんの冗談みたいなものなのだ。だれも本気じゃないぜ、だからタノちゃん、もう怒らないでね。
BGMがYUKIからtacicaに変わった。すれ違う人の歩く速度が、妙に曲に合っていて面白い。
さて、もうすぐだ。
図書館は美術館の隣にひっそりと建っている。美術館周辺は木々で囲まれている。日本の中のさらに島国みたいな田舎だけど、やっぱり街はコンクリートジャングルだ。だから、この辺は貴重な憩いの場である。
図書館の勉強スペースは、ほぼ満席だった。イヤホンをはずす。勉強スペースでお喋りに興じるような人ってなかなかいないのだ。冷房が効いていて窓は閉め切っている。セミの声も聞こえない。世界は静まりかえる。サングラスもはずす。人々が一斉に青白くなった。
窓際にポツンと取り残されたような席を見つけた。正面を見ると窓、その向こうに木々が見える。なかなかいい席だ。ここに決めた。勉強道具を広げる。今日のノルマは、英語の模試過去問二年分、数学の宿題八問、ということにしておこう。まずはあんまり苦手でない方の数学から始める。期待値を求める問題で、ありえないようなごちゃちゃした分数の値が出てしまう。答えを見ると案の定、不正解。でもそこに至るまでの過程は合っているようで、計算間違いかよ、とイライラする。
消しゴムをガーッと走らせて、消しかすを机の向こう側に落としていく。ふと窓の外の青緑、木々の間に黒い塊があるのが目に付いた。でっかいカブトムシのような形をしている。
好奇心には抗わない主義だ。嘘です。数学に向き合う気力が失せたので、巨大カブトムシを見に行くことに決める。音を立てないように慎重に席を立った。勉強道具はそのままにしておく。せっかくの席を、誰かに取られてしまってはかなわない。
サングラスを再び装着して、図書館から出る。
「あれ、今野じゃん」
果たしてそこに居たのは、クラスメイト今野だった。やっぱり制服。そして、黒い塊を片手で支えている。これが窓からはツヤツヤのカブトムシっぽく見えたのだろうけど、意外に布製らしく、くたびれている。
「あ、金田。おはよー」
「おはよ。なにそれ、重そうだね」と私が黒い塊を指して言うと、
「ああ、楽器。見た目ほど重くはないよ」と今野は応える。
「楽器?」
「コントラバス」
今野は黒い塊の下の方に手を伸ばして、真ん中にあるチャックをジジジと開けていく。中からは大きなバイオリンみたいな楽器が出てくる。カブトムシの脱皮。
楽器は側面を下にして、芝生の上にそっと置かれる。今野は黒い抜け殻のポケットから、黒くて細長いケースと、シワシワの布、赤くて丸い小さなケースを取り出す。
「部活とか? 吹奏楽部だっけ、今野って」
「いや、これは、バイトかな。楽器は部活で使ってるやつだけど。金田は? 勉強?」
「うん、宿題。静かでいいよ、図書館。で、バイトって?」
私は驚いて、訊ねる。なんのバイトだ。
今野は返事をせずに、黒くて細長い方のケースから何か取り出す。私が黙って見ていると、これは弓、と説明してくれた。長い弓に、今度は赤い方のケースから取り出した塊を塗りつけていく。松脂というらしい。
「それで、バイトってなにをするん」
今野がすっかりコントラバスの世話を終えたようなので、もう一度訊ねた。今野はまたも返事をしない。代わりに今野は寝かせておいたコントラバスを立たせて、五本ある線の向かって右から二番目を、指で弾く。レの音がする。
「弾くだけのバイト」と、やっと今野が言った。
「弾くだけか」
「うん」
「給料とかは?」
「そりゃ、もらえんと」
「どれくらい」
一番知りたいことだったけど、それは秘密と言って教えてくれなかった。
今野はしばらく、コントラバスの調整みたいなことをしていた。弓を使って、長い音を響かせている。いい感じの低音だ。
「そういえば今野、サングラスしないの? 注意報だけど」
ふと気付いて訊ねた。サングラスしたらバイトにならないんで、と今野。へえ、そうなんだと頷く。言ってる意味はわからないけど、とりあえず。
「バイトって、楽器弾いてどうにかなるん」
「なる、すごいよこれは」。楽器を引く手を休ませて、今野は自慢げに言う。「青をさ、除去するんだよね」
「青を除去」
「そう。ちょっと金田、サングラスはずしてみてよ」と言うので、従う。
「……青がちょっと薄い?」
「うん、コントラバスが吸い取ったからね」
「うそ。どうやって」
「さあ、原理はよく知らん」
よく知らんけど、と言いながら、今野はキョロキョロと辺りを見渡した。そして何かを見つけたようだ。コントラバスは左手で支えられている。
「金田は、ヌゼミって知っとる? あれと同じようなものだって聞いた」
ヌにアクセントを置いた発音だった。
「ヌゼミ?」
「あれとか、なんだけど」と今野が右手で指さしたのは、近くの木の上の方でシャワシャワ鳴いている、アブラゼミだった。
「あれはアブラゼミだろ」
「いや、あれがヌゼミなんだって。よく聞いたら、シャワシャワの下で、ヌーンヌーンと言っとるんよ、わかる?」
「それは、本気なん」
よく聞いたけど、ヌーンヌーンなんて鳴くセミはいないように思えた。今野は渋い顔をし、コントラバスを置いた。そして足元から何かを拾い上げ、それを私に向かって、投げた。ナイスキャッチを成し遂げて手の中を見ると、セミの抜け殻だった。
「こんなもん投げんなよ」。私は慌てて手を放す。抜け殻は芝生に落ちた。
「あ、非道い」
今野はこっちまで来て、抜け殻を拾い上げた。ほら見てというのでよく見ると、殻じゃない。
「さらにキモいよ」
「中身、虫じゃないって、ほら」
殻じゃない抜け殻の中央に縦線、そこに注目せよと言う。
「あ、青い」
ヌゼミはアブラゼミとかクマゼミみたいな姿をとるけど実はセミではない、ということを今野は説明した。神様に量産され、青が来る頃、つまり夏になると、空からゆっくり降りてくるらしい。そして木々や壁に留まって、他のセミの声真似をしながら、同時にヌーンヌーンと鳴く。このヌーンはコントラバス並の低音だという。そして、コントラバスと同じように青を吸い取る。死ぬまで青を吸い取ると、ヌゼミは羽根を縮めて丸まって、自分を薄い殻で覆う。そして殻の中で身体は溶けて、吸い取った青と混じり合って、結晶になる。
また、青は、五月に溢れた人々の憂鬱を主な成分としている。どの季節も憂鬱は空気中に立ちこめているけど、夏の暑さに呼応して青くなるんだって。地球温暖化と、人々の未来への不安とか、凶悪な犯罪とか、いじめ問題とかが、青をどんどん濃くしていく。青はときどき人々を不安にする。だからヌゼミとコントラバスは、蔓延する憂鬱を少しでも取り除く大切な役割を担っている。コントラバスの他にも同じトーンの音を出せる楽器はあるし、人も低い声は出せる。だけど青の除去ができるのは、コントラバスだけなんだと自慢げに言う。
どうせまた、いつもの冗談だろという気分で聞いていた。今野はそういうやつだ。
「それで、集めた青は、こうなる」
今野がそっと青色が覗いている縦線に爪をひっかけ、殻を剥いていく。すると、きれいな青い結晶が現れた。化学の教科書にありそうな色だ。銅の実験とかで。
今野はそれから、ドレミファソラシドとかを何回か弾いた。その後に、一番太い線と、二番目に太い線だけで、何か曲っぽいのを弾く。すごく低い。おもしろいほど低い。かえるのうたのようだったけど、こんなかえるいないぜ、というような感じだ。
サングラスをはずしたまま、そういうのを見ていた。ずっと立っているのも疲れる。スカートがしわにならないように気をつけながら、芝生に腰を下ろした。コントラバスの周りの青がキラキラした粒みたいになって、空気中を踊り、ひげみたいな形の穴に吸い込まれていくことに気付いた。
「こういうのが、除去か」
そうそうすごかろ実際に見てみると、と言って、再び今野はコントラバスを横に寝かせた。手招きされたので、私は立ち上がり、今野の側にいく。コントラバスの側面には二センチ四方くらいの小さな扉があった。扉には鍵穴がある。今野は胸ポケットから金色に光る鍵を取り出して、カチャリ。扉が開く。観音開き。続いて今野が取り出したのはガラスで出来た棒状のものだった。開けたばかりの扉の奥に差し込む。そして引き上げると、ガラス棒の先には、さっき抜け殻から出てきたのと同じような、青い結晶。
「これを提出するのがバイトなわけよ。あと、ヌゼミが作った結晶も集めたらいいっぽい」
「それ、高そうだよね」と私が言うと、
「そうでもないみたいだけどね」
「うそ」
「うん、なんか、消臭剤として利用できる程度みたいだし」
「以外とショボイんだ」
そうなんだよと今野は笑った。
「かわいそうだろ、こんなにきれいなのにな」
今野は四個、青の結晶を集めると、今日はここまで、と言ってコントラバスを片付け始めた。
見ていて分かったのは、青を吸収できるのは、コントラバスの出す音の中でも、低い音を弾いたときだけだということ。また、一度コントラバスの周辺が青くなくなっても、他の場所からの青が流れ込んで、結果的にどこも、変わらない青さのままだということ。
「まだ、全然青いじゃん」
「そんなものでいいんだって」
「どうせなら、透明にしたらいいのに。その方が儲かりそう」
「うん、だろうけど、一気に薄くなったら、ばれるじゃん」
青を除去する作業は、あまり大々的にやれないのだと今野は説明した。
「なんで」
「国家機密だからだろ」。今野はいたずらっぽく笑う。
「はは、そうだった」
今野がすっかり後片付けを終えるまで、私は横で見ていた。気付けばもう三時だった。そういえば、昼ご飯を食べていなかった。もう戻ろう。お腹が空いたし、そろそろ勉強道具が人様の邪魔になっているだろうし。
「なんかおもしろかった、ありがとう。それじゃあね」と私は今野の方をたたく。コントラバスも、なでさせてもらった。
「うん、こっちも一人で弾くより楽しかった」
「それはよかった。……じゃあまた、夏休み明けとかに」
私はスカートについた大量の芝を払った。
今野は少し寂しそうな顔をした。
「どしたん」
「いや、たぶん、もう会えないなあと思うとさあ」
「はは、またそういう冗談?」
「青集めがだいぶ、巧くなったからさ、昇進することになって」と必死そうに言うので、私は黙って聞いてやる気になった。
「オレ、実は天使でさ、ヌゼミの仲間なんだけど、上に帰ることになると思う」
笑えた。
私が声を殺して、のどの奥で笑っていると、今野は神妙な笑い顔を作って、続けた。
「それで、転校するみたいに言われると思うんだけど、神様も非道じゃないから記憶消すとかしないしさ。ああそれで、みんな元気でって言っといてや。あと、国家機密探りまくったら、消されるから気をつけてって」
「はは、うん。わかったよ、うん」
私たちはお互い手を振って別れた。
私のものだったはずの机には太めの男性が陣取っていて、原稿用紙に必死に文字を並べていた。かわいそうに、私の勉強道具はどういう経路を辿ったのか、勉強スペースの入り口に、ひっそりと並べられていた。
夏休みも後半戦に入り、いよいよ青は濃さを増した。宿題は相変わらず進まないけど、ひっそり並べられた勉強道具たちショックで、図書館に行く気はしなかった。「夏休みの友」を見ると、吹奏楽部も弦楽部も、部活をしていることが分かった。そのどちらかだろう、今野が所属しているのは。
今日は学校の自習室で勉強をしよう。サングラスをかけて、家を出た。
「そろそろ警報かしらね」と母が言っていた。もっとがんばれよヌゼミもコントラバスもと思った。今野にあったら、そうやって言っておかないとな。
校門の前に来ると、今野が本当に天使で、上に帰ってたらどうしよう、という気がしてきた。
しばらく考えると、万が一本当にそうだとしても、それはまたおもしろいではないかという気になった。今野らしいおもしろさだ。そして今野はおもしろいやつだが、おもしろいやつにありがちなように、成績が悪い。だから青を集めるのが巧くても、昇進して就いた仕事は上手くいかない。それできっと左遷され、戻ってくるのだ。
私はサングラスをはずして、一歩を踏み出した。
校舎では吹奏楽部が合奏をしているらしい。大会が近いとか、そういうあれなんだと思う。青い景色に、爽やかな音楽が駆け抜けていく。
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