はいからいおんパート2 往復書簡 忍者ブログ
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「京大短歌」十八号より

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あきひこさん

 今日は。いきなり話の腰を折るけれど、「今日は」って文字にすると変な挨拶ですね。だってそれって一体いつなのでしょう。人はある日付の中でだけ出会うわけではないですし。とりあえずここでは、すべての今日を背負うってことにしておいて、こんにちはあきひこさん。お風邪など引いていませんか。まあ聞いてください。
 都会はまだ暑いでしょうか。北陸はまだ少し暑いです。ときどき風が涼しいと、秋が来るなっておもいます。「元気で」より「風邪引かないで」の方が言い淀まなくて済むから、秋は歓迎すべきです。手前勝手ですけど。
 最近運河を整備してきれいになった、環水公園へきのう妹と行ってきました。駅のすぐ北側にたっぷりと幅の広い水溜まりがずっと遠くまで伸びていて、異国みたいでした。大きな橋が架かっていて、たもとには観光ボートの船着場があって、水面が涼しげにさざ波立って。その大きな橋の両端の橋台は塔のようになっていて、登ることができます。それでもちろん一番上のテラスへ登ってみたら、水面からだいぶ高さがあって、やや怖かったです。やや。
 テラスからはもう片方の橋台のてっぺんの、同じくテラスへと、糸電話が架けてありました。こんな距離をちゃんと張るとは、やるな、糸。ところが受話器はただの透明なプラスチックのコップで、なにか拍子抜けだという点でわたしと妹の見解が一致したことを報告しておきます。陽に透けていてきれいでしたけれども。
 帰りに公園のはずれの駐車場から振り返ってみると、その糸はもう見えなくなっていました。だけど、そもそも、あの糸はほんとうにあったのでしょうか。おかしなことを言っていると思います。でも…そうであった記憶を持っているというだけの理由で、そうであることを信じるなんて、考えてみれば不思議です。記憶は、見えないのに。たとえば今眼鏡をかけてみても、記憶の中のあの糸がよく見えるようにはならないでしょう?糸があったかどうかを、明日かあさってか、次に思いついたときに妹に聞いてみようとおもいます。50年後だったりして。
 あるかないかで言うと、そうそう、首都高ってほんとうにありますか?首都高速道路。一度しか乗ったことがなくて。ちぢめて「首都高」という呼び方はいいですね。シュトコーっていう響きがいいです。それから、ほどよく抽象なのがいい。あと、外から見ている首都高と乗ったときの首都高って同じものなのかも気になります。次に会ったらぜひディスカッションしましょう。
 なにやら理屈っぽいお手紙になってしまいましたが、ともあれ、風邪引かないでくださいね。

 誰しもが見えない馬を駆ることのはなむけとして天の河*       すずこ
*ルビ:天の河……ミルキーウェイ



すずこさん

 こんばんはすずこさん、元気な僕でいます。なにしろ都会では暑い日が続いています。去年は手紙の中に秋や冬の訪れを書き込んだはずなので、一年でずいぶんといろんなことが変わってしまったみたいです。秋や冬はもうここには来ないのでしょうね。虫も鳥もどんどん飛んでいってしまって、都会のことを憶えているのは人間ばかりです。北陸は、どうですか、もっと寒くなりましたか。都会の友人のひとりなんかは冬服をみんな捨てたと言っていましたが、僕はそのうち北陸に行こうと思って、セーターもコートも大事にとっておいています。また会うのが楽しみです、元気にすごしてください。
 さて、運河って宇宙みたいで、おどろきました。銀河や星雲と、少しずつ音が似ているからでしょうか。薄紫色した銀河(ここからそれは美しい楕円形をして見えます)で輝く星のことを想像します。星はからだじゅうに水をたたえていて、星のてっぺんには広い庭を持った白い石造りの王宮があります。それが環水公園です。どうですか。
 糸電話の糸のことは、50年後も、僕は憶えていることにします。実際に体験したという記憶を持ってさえいないのに、信じることもできますから、不思議ですね。すごいですね。小説などを読んで残るのが、文字の並びや音の連続でなく画像・映像だったりすることがときどきあります。そういうことが好きです。
 あんまり頭の中のことばかり書いていては、駄目ですね、報告します。僕はきのう皆既月食を見ましたよ。バイトが終わって家に帰るとすぐに眠ってしまったのですが、家族からの電話に起こされました。月食コールです。あわててベランダに出ると月はもう欠けはじめていて、すごいはやさで細くなっていく光でしたから、いっきに月日が流れているのではと少し怖くなったくらいです。下宿の横のうるさい線路には、このときも電車が通っていました。電車内のひとびとの多くはオレンジ色の光のなかで窓に張り付いて口をぽかんとあけて、やっぱり月を見上げていました。たくさんのベランダにひとが立っていました。塾帰りの高校生たちが、携帯電話で空を撮りながら歩いていました。月が細くなるにつれて、まわりの星ぼしは明るくなりました。月食って、真っ暗ではないのですね。赤い月を見てなんにんの子どもがこれを「怪奇」月食と記憶したか。とても愉快な気持ちでした。いまも愉快です。うん、こんなところかな。
 首都高のことは、まだ秘密にしておきます。
 
 遠い銀河に時間をあたえ僕たちのごっこ遊びの設定不足      あきひこ




あきひこさん

 カイキな月のご加護は、その後もありますか。
 ずいぶん寒くなりました。寒いと空気がより澄むってよく言いますよね。透明なものの代表としてわたしたちが空気を言うように、もともと透明なのの上のさらなる透明というと、もう人間の知覚が追いつけない気がするのに、確かに冬空はクリアに思えておもしろいです。その中を群がって飛ぶ姿を目で捉えることはあまりないのですが、夕刻に外を歩いていると、まちじゅうの常緑樹に鳥たちが群れているのが鳴き声でわかります。去年までよりずっと頻繁にそんな木々に行き合います。
 その日はこの季節には珍しくよく晴れていて、午後の早いうちに繁華街を散歩していました。中心から少し外れたところに、木造の小学校の廃校舎があります。どうやら今は無料で開放しているらしく、気になって入ってみました。受付の赤っぽいソバージュ(ソバージュ!)の人に会釈して、とんとんと木目を踏んで進んでいきました。来訪者はどうやらわたしひとりだけのようです。2階のとある教室の戸を引いて中に入ると、窓が一面暗幕で覆われていました。その窓際の、黒板側の端に置いてある椅子の上、プロジェクターから光が伸びています。その光の中を、金魚が泳いでいたのです。何匹も。光は教室の後ろの側へ伸びてひろがり、金魚は光る壁面にたまに近づいてそこを泳いでは身を翻し——壁は平面なのに不思議です。金魚に厚さがあるかどうかもよく判らないのです。ふと目をやると教卓には水槽が置かれており、だけどそこに満ちてたゆたっているのが、水なのか光なのか空気なのか、それも自信がなくなってきて。そのことがどきどきして心地よくて、ず
いぶん長い間そこに立っていました。
 あらためて運河や銀河のことを思います。水も光も空気も、それから影や音なんかも、ときにおなじものであっても良いのかもしれません。そちらは相変わらず夏の終わりのただ中でしょうか。こちらは昨日みぞれが降りました。あの金魚たちのように、自在に空中を泳いで、都会まで旅をする、水とも氷とも光ともつかない粒たちを空想します。夏をほんとうに終わらせに、派遣できたら良いのですけれど。そんなことを考えながら毎日、野菜を切り、洗い、茹でています。水が冷たくてきりきりします。あきひこさんも、きりきり、触りにきてください。風邪を引かずに待っています。
 そう、まだことしは風邪を引いていないのです。一度だけ頭が重くて喉がすこしいがいがするなあというときがあったのだけど、その晩、夢に真っ白なエスカレーターが出てきました。どこかの巨大な吹き抜けで、わたしは自動販売機のてっぺんに腰掛け、静止したそれらを見上げています。目が覚めると窓が結露していて、しらしらとまぶしかったです。目を完全に開くのが、もったいないくらい。

 おそなつが晩夏を呼び給仕らは銀盆*に影と光を運ぶ         すずこ
*ルビ:銀盆……トレイ



すずこさん

 ごめんなさい、お返事が遅れてしまいました。相変わらずの暑い日々です。夏の終わりにいつもは秋が来てくれるのにそうでなく、夏の続きにほんとうにあるのはこういうものなんだよというような、殺風景の季節を前にしている、という気分です。蟬はもう大昔に落ちきってしまって鳴かず、植物ばかりが力強くなっていきます。すずこさんたちからの手紙のおかげで、僕たちは変な永遠に捕まったわけでなく、ちゃんと時間は進んでいるんだと安心できます。寒いと澄むという空気は、暑いときどうなっているのでしょうか。美しく色づいているのでしょうか。
 ついこのあいだ髪を切りました。大学生のうちに一度、女の子がときどきやるような「髪をばっさり切る」をしてみたいのだけれど、こうも暑さに続かれてはかないませんね。毎回違う店で散髪するようにしていて、そのたび架空の人物としてふるまうようにしているという話を以前にも書いたと思います。今回もまた、初めての美容院に行きました。ロシア正教の教会の近く、細長いビルの二階にある美容院です。他のお客さんは女性ばかりで、みんな髪をばっさりと切って短くしていました。僕の担当の美容師さんもショートカットの女性で、暑いですからと言っていました。でもショートカットが流行るって嬉しいんですよ、頭のかたちがよくわかっちゃう髪型だし、腕が試されるんです、やってやろうじゃんって気になりますからねと言っていました。僕は出版社でバイトをしている設定だったので、出版社のバイトってどんなことをするんだろうなあと考えながら、最初は電話の対応もうまく出来なくて困りました、知らない言葉って聴き取るがとても難しいですねというような話をしました。目の前には鏡があり、その向こうにはよく磨かれた大きい窓がありました。自分の顔をずっと見つめるのも気詰まりですから窓の向こうをちらちら気にしていると、夕焼けの空にいっそう赤い点々が浮かび始めました。あれはなんでしょうねと話かけると、あれは金魚の渡りですよ、と僕の耳の横の髪を切りながら、美容師さんは答えました。
 金魚の渡りは十二月の始めくらいにはじまったと言います。近くの川には釣り堀があって、鯉と金魚が飼われています。釣り堀の金魚は教育されて、夏の続くことを知っていましたが、脱走し川で暮らし始めた金魚たちはそれを教わりませんでした。脱走金魚たちの代々の智恵で夏を乗り切り冬を乗り切りしていたのに、今年はいくら待っても次の季節がやって来ないものだから、自分たちで次の季節まで行こうと決めたのです。泳いで海を渡ることは危険だと老いた金魚は若い金魚に言いました。体の水分が、塩水に吸い取られてしまうらしい。しかし、空が危険だと教えることのできる金魚はいませんでした。空はまったくの未知でした。飛んでみようとして、飛べてしまったのが間違いで、鳥につつかれつつかれ、北に向かっているのです。鳥に食べられることの意味を知らない金魚は、そういう乗り物と思って自分から鳥のほうに近づいてしまうこともあります。と、美容師さんは答えました。嘘ですね、と僕は笑います。あれは僕の友人が、この夏を終わらせに派遣した光るやらかい粒たちなのです。

 燃やすための空を探そう 閉じていく窓それぞれに夜が長くて   あきひこ




あきひこさん

 空と地面の間に閉じ込められたいと思うことがあります。子どもの頃から繰り返し頭に浮かぶイメージで、小学校の図書館で司書さんが作ってくれた、葉脈をラミネート加工した栞を見た時、ああこれだと確信しました。ほとんど安堵に近い確信でした。種類は忘れたけれどなにかの広葉樹の一枚の葉から、きれいに葉脈だけを剥がして、色をつけて台紙に載せ、そうして閉じ込めるのです。わたしが空想したのと、おなじことを考えて実際にやっている大人がいる。わたしにもできるのだ。大人になれば、きっと。でも色を塗られるのだけは遠慮したいな。だけどそれをし合うには一体いつ、誰に、どんな言葉で言えば良いのだろう。そんなことを、大きな書架の大きなアルミ製の梯子に腰掛けて、考えるともなく考えていました。
 今日すごいものを見ましたよ。桜の花びらと雪がたくさん、目の前の視界を降りていったのです。一緒に入り交じって。坂が多いこの街にあって丘と呼べるところ、お城のある丘の斜面の数本の桜が花びらを降らせています。昨夜から今朝にかけて積もったものよりずっと小さく軽いタイプの雪が、ゆっくりと空から落ちてくる中を。わたしは丘の周りに沿うゆるい坂道を歩いて下ってゆくところでした。あまりにきれいだったから、立ち止まれなかった。できるだけゆっくり下って、その間に目に焼きつておこうと思い、そうしました。あとで夕方のニュースを見たら、気温はいつもの年と変わらないのに、一部の樹木や花の開花だけが早いらしいと言っていました。そのことと都会の夏との関係はまだよく分からないのだそうです。
 いまこの手紙を書きながら、閉じ込められるならあのタイミングだったかな、と少し考えました。せっかく美しかったのだから。でも、答えは否です。あの時、坂の途中にいつまでも立ち止まるのが、立ち止まりたくなるのが怖かった。その直感だけがただ一つの根拠で、だから、正解に違いないと言うつもりはないけれど。閉じ込められてぺらぺらになったら、長靴も履けなくなっちゃうことですしね。髪を切りながら切られながら嘘を吐けるように、歩きながら栞を挟むことも、できるのだからいいのかなって。
 旧暦ではもうすぐ春ですね。毎年この時期って春は匂いでしか分からないのに、今年はもう目で見てしまいました。予想していなかったことばかり起こります。長靴のまま歩いていたらいつの間にか首都高の上にいるなんてことがあったら良いのに。今日のとはまた全然違った風に空が広いその場所で、何も書いていない便箋を贈り合って、折って、みんなで飛ばしたい。くるくると色を変えていく空気の中へ。でもいまこうして、見たものや見えないものや見たいもののことを書いている。それだってちっとも悪くないと思うのです。
 それではあきひこさん、どうか良い明日を。

 いつどんな窓辺にいてもわたしたち星の炎へ顔を上げるよ      すずこ




すずこさん

 思い立って部屋の掃除をしてみると、窓のそばに置いた背の低い本棚の上、カーテンの影になるところに、失くしたと思っていた万年筆を見つけました。都会に出るときに母がくれた万年筆です。そういうわけでこの手紙は万年筆で書かれています。万年筆という名前はよいですね、この名前を書いたり発したりすればそれはあたりに染み付いて、染みの付いたあたりは永遠に、紙が燃えて、ひとが絶えても消えずに残るというような気分になります。でも本当は、万年だなんて伏線を張らなくても、言葉たちは勝手に残るのでしょうね。強く。
 さて。首都高は実在しました。ソ連映画『惑星ソラリス』にも登場しています。僕はこの映画を何度か見ましたが、いつもその首都高のシーンで眠ってしまいます。最後には目を覚まします。だから僕はこの映画について、最初のいくつかの場面と、ラストシーンしか知りません。それでもその最初と最後が美しいので、良い映画だと思っています。機会があったらぜひすずこさんもご覧ください。
 都会の春の夜に大停電がありましたね。あのとき、地面に生える光のすべてがふっと消えました。ほんの数秒のあいだだったと思います。すぐにふたたび灯りました。しかし首都高を囲んでいた光たちは帰りませんでした。しばらくのあいだ車たちは光り続けていましたが、ひそひそ話がとだえるみたいに、ゆっくり、一匹ずつ、消えていきました。それでどこに行ったかはわからないと言います。そのうちに夜の首都高はぽっかりと黒い帯となりました。都会から放射状に広がる帯、都会を囲む丸い帯です。朝が来るとその首都高のあった場所は、最初からなにもなかったというような顔をして広がっていました。車も高架も残されていないのです。宇宙人がどうだとかいろんな話が飛び交いましたが、どの憶測もはやくに廃れていきました。なぜだか僕たちには首都高がなくなっても平気だったのです。ゆっくりと春は夏になり、夏が深まったところで季節が止まりました。おそらく同時に、首都高が帰ってきました。と言ってももとのような姿ではありません。夜になると光たちが渡ってゆくので、そこが首都高だとわかるのです。首都高の入口に並んだ車たちはゆっくりのぼっていって、高い平行な道を見つけると形をなくし、光たちに変わります。そしてふるさとなど目指して走るのです。首都高とつながっていた実際の道路とその光たちがどのように交わるのか、わかりません。僕はときどき首都高のはじまるところに立って、車がヘッドライト・テールライトの生き物になってだんだん遠ざかるのを見つめます。車を動かし首都高にのぞむひとびとに、感想などをききたく思ってそうしているのですが、誰も車を降りたり窓を開けたりしてくれません。最初から車ごと架空なのかもしれません。いまが夜です。非現実の光の群れを見ながら、終わらない夏のことも考えます。書くことで残そうとして、書いているのですが、どうなのでしょうか、書かれているこれらは本当でしょうか。光たちの美しさはこうして閉じ込められるためではないことを感じています。すずこさんの書いたプレパラートへの憧れに少し救われた思いで、やっとこの手紙を書きました。
 どうぞ順調に春を迎えてください。僕たちの季節が交わるのを楽しみにしています。

 光ばかり見えるのだね。見上げれば天球にSilentium*膨らむ   あきひこ
*ルビ:Silentium……シレンチウム



《ある往復書簡 2》
「京大短歌」十八号より
(笠木拓・山中千瀬)
(平成24年4月28日)




金魚ファーによる公開
平成25年7月8日

笠木拓(@fakefakefur
山中千瀬(@bit_310
金魚ファー(@kingyofur
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